Todo sobre la muerte de mi madre vol.5
2010年 04月 05日
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ICUの面会時間は昼間1時間、夜1時間だけだ。それでも、看護士さんたちは数時間ごとに私の入室を許可してくれた。きっと、今まで一緒にいられなかった分を取り戻してあげようと思ってくれたのだろう。
病院から実家までは車で5分。病院の待合室は混んでいたので面会後は自宅へ戻った。看護士さんたちは容態が悪くなるとすぐ電話をくれたので、結局3回くらい病院と実家を往復した。
3回目の電話は4日の夜9時半。もうダメだと覚悟して病院へ行ったが、それでも母の心臓は止まっていなかった。不思議なことに父と私が病院へ行くと、心拍数も血圧も少し上がった。
それでも、朝から比べると確実に母の容態は悪化していた。さすがに今夜が峠ということになり、病院から徒歩1分のアパート(病院契約)で待機することになった。病院からはポケベルが渡された。
考えてみたら、バレンシア-マドリッド-日本と丸2日間一睡もしていなかった。でも全然眠ることができない。ただ、父を眠らせる必要があった。母の緊急入院から今日までずっと気が張っていたに違いない。私よりも遥かに憔悴していたのだ。
そして夜中の3時、ポケベルは鳴った。
「Noooooooooooo!(オイ、外国かぶれ!)いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
思わず叫んだ。もうダメなんだ、ダメなんだ。
とりあえず父を先に行かせ、私はアパートの戸締りやら布団を上げたりしてから後を追った。
ICUに到着した時点で母の血圧は上が10くらい。心拍数も似たようなもの。父が母の耳元で一生懸命話しかけている。
「頑張れ○○(母の名前)!もうちょっと頑張れ!」
私も一生懸命、呼びかけた。
「お母さん!お母さん!お母さん!」
そんな中、別の看護士(女性)さんがやって来た。
「体の中で最後まで機能しているのは、お耳なんです。一生懸命、声をかけてあげてくださいね。」
きっと父はこの言葉に救われたに違いない。
45年間連れ添ってきた妻の最期の瞬間。私がスペインにいた間、父は一人で母を看病してきてくれた。45年間ずーっと母と一緒にいてくれた父。
最期の瞬間は父の手を握りながら母に逝って欲しかった。
声をかけるたびに機械の数値が0から5、10と上がっては下がるの繰り返し。たとえ数秒間ゼロになっても担当医は機械のスイッチを切らなかった。
「まだ動いていますから…。」
私たち、特に父に配慮してくれたんだと思う。
そして数分後。ドラマや映画でしか聞いたことのない医師の言葉。
「2010年4月5日午前3時39分、ご臨終です。」
2月に70歳になったばかりの母でした。
父は万一を考えて、母の服をちゃんと用意していた。母は裁縫をする。3月24日に入院する直前まで、たくさんの服を縫っていた。母が作ったばかりのお気に入りの服。
「退院する時に着たいから、持ってきてね。」
母に頼まれた服を父はずっと持ち歩いていた。
看護士さんたちが母の着替えをしてくれている間に、父と私は葬儀屋へ電話した。ここからは現実的な事務手続きに入らなければならない。母の死を悲しむ暇はない。
でも実際、何かをしていた方が良かったのだ。失望感というものがいかに辛いか、葬儀が終わってから実感した。
母は何かあった時に備えて、以前から父に色々話していたらしい。母の遺志で葬儀は自宅で行わないことにした。すでに葬儀屋の連絡先も父に知らせていた。
母の死についての投稿はここまでです。葬儀の準備についてはまたいつか、これまた備忘録として投稿したいと思います。話せば楽になるじゃないけど、こうやって備忘録として書くことによって、少しは救われるかなって思いつつ…。
ここ数年、入退院を繰り返していた母に何にもしてあげられなかった。倒れた時、そばにいてあげられなかった。母の死からずーっと罪悪感に苛まれていた。
そんな時、最近ママになった元同僚が送ってくれたメール。
娘に望む3つのこと
1.自分より長生きすること
2.やりがいのある仕事をすること
3.好きな人に好きって思ってもらえること
「madrizはこの全てを満たしている。本当に親孝行だったんだよ!」
2番、3番は状況によって、うーん…と考えたりもしちゃうけど、1番は叶えることが出来た。母を見送ることが出来て本当に良かった。
15年前に子供(私の兄)を亡くしている両親。あの時と同じ思いをさせてはいけないのだ。
最後に…。たくさんの友人からお悔やみと励ましをもらいました。みんな本当にありがとう。みんなの言葉で本当に救われました。ぼちぼち元気になってきました。
近いうちに会えること、楽しみにしています!
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ICUの面会時間は昼間1時間、夜1時間だけだ。それでも、看護士さんたちは数時間ごとに私の入室を許可してくれた。きっと、今まで一緒にいられなかった分を取り戻してあげようと思ってくれたのだろう。
病院から実家までは車で5分。病院の待合室は混んでいたので面会後は自宅へ戻った。看護士さんたちは容態が悪くなるとすぐ電話をくれたので、結局3回くらい病院と実家を往復した。
3回目の電話は4日の夜9時半。もうダメだと覚悟して病院へ行ったが、それでも母の心臓は止まっていなかった。不思議なことに父と私が病院へ行くと、心拍数も血圧も少し上がった。
それでも、朝から比べると確実に母の容態は悪化していた。さすがに今夜が峠ということになり、病院から徒歩1分のアパート(病院契約)で待機することになった。病院からはポケベルが渡された。
考えてみたら、バレンシア-マドリッド-日本と丸2日間一睡もしていなかった。でも全然眠ることができない。ただ、父を眠らせる必要があった。母の緊急入院から今日までずっと気が張っていたに違いない。私よりも遥かに憔悴していたのだ。
そして夜中の3時、ポケベルは鳴った。
「Noooooooooooo!(
思わず叫んだ。もうダメなんだ、ダメなんだ。
とりあえず父を先に行かせ、私はアパートの戸締りやら布団を上げたりしてから後を追った。
ICUに到着した時点で母の血圧は上が10くらい。心拍数も似たようなもの。父が母の耳元で一生懸命話しかけている。
「頑張れ○○(母の名前)!もうちょっと頑張れ!」
私も一生懸命、呼びかけた。
「お母さん!お母さん!お母さん!」
そんな中、別の看護士(女性)さんがやって来た。
「体の中で最後まで機能しているのは、お耳なんです。一生懸命、声をかけてあげてくださいね。」
きっと父はこの言葉に救われたに違いない。
45年間連れ添ってきた妻の最期の瞬間。私がスペインにいた間、父は一人で母を看病してきてくれた。45年間ずーっと母と一緒にいてくれた父。
最期の瞬間は父の手を握りながら母に逝って欲しかった。
声をかけるたびに機械の数値が0から5、10と上がっては下がるの繰り返し。たとえ数秒間ゼロになっても担当医は機械のスイッチを切らなかった。
「まだ動いていますから…。」
私たち、特に父に配慮してくれたんだと思う。
そして数分後。ドラマや映画でしか聞いたことのない医師の言葉。
「2010年4月5日午前3時39分、ご臨終です。」
2月に70歳になったばかりの母でした。
父は万一を考えて、母の服をちゃんと用意していた。母は裁縫をする。3月24日に入院する直前まで、たくさんの服を縫っていた。母が作ったばかりのお気に入りの服。
「退院する時に着たいから、持ってきてね。」
母に頼まれた服を父はずっと持ち歩いていた。
看護士さんたちが母の着替えをしてくれている間に、父と私は葬儀屋へ電話した。ここからは現実的な事務手続きに入らなければならない。母の死を悲しむ暇はない。
でも実際、何かをしていた方が良かったのだ。失望感というものがいかに辛いか、葬儀が終わってから実感した。
母は何かあった時に備えて、以前から父に色々話していたらしい。母の遺志で葬儀は自宅で行わないことにした。すでに葬儀屋の連絡先も父に知らせていた。
母の死についての投稿はここまでです。葬儀の準備についてはまたいつか、これまた備忘録として投稿したいと思います。話せば楽になるじゃないけど、こうやって備忘録として書くことによって、少しは救われるかなって思いつつ…。
ここ数年、入退院を繰り返していた母に何にもしてあげられなかった。倒れた時、そばにいてあげられなかった。母の死からずーっと罪悪感に苛まれていた。
そんな時、最近ママになった元同僚が送ってくれたメール。
娘に望む3つのこと
1.自分より長生きすること
2.やりがいのある仕事をすること
3.好きな人に好きって思ってもらえること
「madrizはこの全てを満たしている。本当に親孝行だったんだよ!」
2番、3番は状況によって、うーん…と考えたりもしちゃうけど、1番は叶えることが出来た。母を見送ることが出来て本当に良かった。
15年前に子供(私の兄)を亡くしている両親。あの時と同じ思いをさせてはいけないのだ。
最後に…。たくさんの友人からお悔やみと励ましをもらいました。みんな本当にありがとう。みんなの言葉で本当に救われました。ぼちぼち元気になってきました。
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by dias-madriz
| 2010-04-05 03:39
| Familia