マドリッドから発信


by dias-madriz
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ICUの面会時間は昼間1時間、夜1時間だけだ。それでも、看護士さんたちは数時間ごとに私の入室を許可してくれた。きっと、今まで一緒にいられなかった分を取り戻してあげようと思ってくれたのだろう。

病院から実家までは車で5分。病院の待合室は混んでいたので面会後は自宅へ戻った。看護士さんたちは容態が悪くなるとすぐ電話をくれたので、結局3回くらい病院と実家を往復した。

3回目の電話は4日の夜9時半。もうダメだと覚悟して病院へ行ったが、それでも母の心臓は止まっていなかった。不思議なことに父と私が病院へ行くと、心拍数も血圧も少し上がった。

それでも、朝から比べると確実に母の容態は悪化していた。さすがに今夜が峠ということになり、病院から徒歩1分のアパート(病院契約)で待機することになった。病院からはポケベルが渡された。

考えてみたら、バレンシア-マドリッド-日本と丸2日間一睡もしていなかった。でも全然眠ることができない。ただ、父を眠らせる必要があった。母の緊急入院から今日までずっと気が張っていたに違いない。私よりも遥かに憔悴していたのだ。



そして夜中の3時、ポケベルは鳴った。


「Noooooooooooo!(オイ、外国かぶれ!)いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」



思わず叫んだ。もうダメなんだ、ダメなんだ。



とりあえず父を先に行かせ、私はアパートの戸締りやら布団を上げたりしてから後を追った。

ICUに到着した時点で母の血圧は上が10くらい。心拍数も似たようなもの。父が母の耳元で一生懸命話しかけている。


「頑張れ○○(母の名前)!もうちょっと頑張れ!」


私も一生懸命、呼びかけた。


「お母さん!お母さん!お母さん!」


そんな中、別の看護士(女性)さんがやって来た。


「体の中で最後まで機能しているのは、お耳なんです。一生懸命、声をかけてあげてくださいね。」


きっと父はこの言葉に救われたに違いない。


45年間連れ添ってきた妻の最期の瞬間。私がスペインにいた間、父は一人で母を看病してきてくれた。45年間ずーっと母と一緒にいてくれた父。



最期の瞬間は父の手を握りながら母に逝って欲しかった。


声をかけるたびに機械の数値が0から5、10と上がっては下がるの繰り返し。たとえ数秒間ゼロになっても担当医は機械のスイッチを切らなかった。


「まだ動いていますから…。」


私たち、特に父に配慮してくれたんだと思う。


そして数分後。ドラマや映画でしか聞いたことのない医師の言葉。



「2010年4月5日午前3時39分、ご臨終です。」



2月に70歳になったばかりの母でした。


父は万一を考えて、母の服をちゃんと用意していた。母は裁縫をする。3月24日に入院する直前まで、たくさんの服を縫っていた。母が作ったばかりのお気に入りの服。



「退院する時に着たいから、持ってきてね。」



母に頼まれた服を父はずっと持ち歩いていた。

看護士さんたちが母の着替えをしてくれている間に、父と私は葬儀屋へ電話した。ここからは現実的な事務手続きに入らなければならない。母の死を悲しむ暇はない。

でも実際、何かをしていた方が良かったのだ。失望感というものがいかに辛いか、葬儀が終わってから実感した。

母は何かあった時に備えて、以前から父に色々話していたらしい。母の遺志で葬儀は自宅で行わないことにした。すでに葬儀屋の連絡先も父に知らせていた。



母の死についての投稿はここまでです。葬儀の準備についてはまたいつか、これまた備忘録として投稿したいと思います。話せば楽になるじゃないけど、こうやって備忘録として書くことによって、少しは救われるかなって思いつつ…。


ここ数年、入退院を繰り返していた母に何にもしてあげられなかった。倒れた時、そばにいてあげられなかった。母の死からずーっと罪悪感に苛まれていた。

そんな時、最近ママになった元同僚が送ってくれたメール。

娘に望む3つのこと
1.自分より長生きすること
2.やりがいのある仕事をすること
3.好きな人に好きって思ってもらえること



「madrizはこの全てを満たしている。本当に親孝行だったんだよ!」



2番、3番は状況によって、うーん…と考えたりもしちゃうけど、1番は叶えることが出来た。母を見送ることが出来て本当に良かった。


15年前に子供(私の兄)を亡くしている両親。あの時と同じ思いをさせてはいけないのだ。


最後に…。たくさんの友人からお悔やみと励ましをもらいました。みんな本当にありがとう。みんなの言葉で本当に救われました。ぼちぼち元気になってきました。

近いうちに会えること、楽しみにしています!


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by dias-madriz | 2010-04-05 03:39 | Familia | Trackback
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入国手続きを済ませ、すぐに自宅へ電話した。本当は電話したくなかった。電話口で母はもう亡くなったと聞くのが怖かったからだ。

まだ母はICUで頑張っていると聞き、安堵した。父に実家近くの駅まで車で迎えに来てもらい、病院へ直行した。

母がICUに入ってから丸2日経っていた。母はまだ生きている。もしかしたら回復するかもしれない。そんな希望を抱き、私は車の中で祈り続けた。


4月4日(日)朝9時半ICU到着。


ドラマや映画で見覚えのあるICUの様子。入室する時、手でドアに触れてはいけない。ICU入室後に手洗い、消毒、そしてマスクを着用する。

ベッドに横たわっている母を見た瞬間、現実に直面した私は言葉を失った。今まで抱いていたかすかな希望が音を立てて崩れていった。

自分で呼吸が出来なくなった母の体には無数の管がつながれていた。脳のむくみを取るための点滴やら、素人では分からないたくさんの機械に囲まれ、つながれている母。


「madrizが帰ってきたんだよ。聞こえるか?○○(母の名前)、頑張れよ!」


父が一生懸命語りかける。


「お母さん!お母さん!聞こえる?帰ってきたよ!遅くなってごめんね、ごめんね。」


一生懸命呼びかけてみたが、反応はまったくない。全然動かない。ピクリともしない。泣きじゃくりながら、母の手を握りながら、何回も何回も何回も呼びかけた。

それでも母は目を開けない。何の反応もない。もう、どうしたらいいんだろう。パニックに陥った。


そんな時、ICU担当の看護士(男性)さんが挨拶に来てくれた。

「娘さんですね。間に合って良かったね。お母さん、頑張っているよ。」


母が危篤状態になった2日前、駆けつけた親戚たちが手を握りながら、「madrizがもうすぐ帰ってくるから、頑張れ!もうすぐ会えるよ!」と声をかけると、母は薄目を開けて涙を少し流しながら手を握り返してくれたらしい。

口の悪い叔父(母の弟。でもホントは優しい人)に言わせると、脳梗塞の人はよく涙を流すもんだし、体の反応があるってのは機械につながれているからだと言う。


オイ!叔父さん!人間ってのはこーいう状況下で、いちるの望みを託したいもんなんだよ。そんなヒドイこと言うなよ!


泣きじゃくる私の横で看護士さんが言った。

「昨日までは手足を強く押すと反応してくれたんだよね。ただ、いくら意識がないとは言え、お母さんに痛い思いをさせちゃうみたいで、あんまり押すのもねえ。可哀想だし。」


体中管だらけで意識も全くない、ピクリとも動かない母の顔を綺麗に拭いてくれたり、歯を磨いてくれたり、ちょっと熱が高いと言ってはすぐに氷枕を用意してくれたり、何かする度に「○○(母の名前)さーん、今からちょっと体を動かしますよー。」って声をかけてくれる。


その看護士さんの優しい対応に私は少し救われた。


その後、担当医が母の容態を詳しく分かりやすく説明してくれた。残念ながら母の脳はすでに半分以上が脳死状態になっているとのことだった。

1%の可能性もないが、仮に脳が回復したとしても意識は戻らない。つまり植物状態になるという。

植物状態というのは、意識がなくても脳も体も生きている。機械につながれなくても自分で呼吸ができるのだ。

でも脳の大半が脳死状態になっていて、機械を外せば呼吸が止まってしまう母に脳の回復を期待するのはあまりにも非現実的だった。


それでも母はまだ生きている。担当医は2日前、「娘さんは臨終に間に合わない」と父に告げた。それでも母は頑張っている。安置室ではなく病室で私を待っていてくれた母に感謝した。


少し落ち着いた私は、例の優しい看護士さんと話し始めた。


「この状態で脳が回復し、植物状態になるとは思えません。機械で生かされている母が可哀想。」


可哀想とは言いつつも、100%脳死状態でない母の機械のスイッチを切れるのか?とふと思った。

そもそも本人の意思が分からない場合、尊厳死ってのは周りが判断していいものなのだろうか?楽にしてあげたいって言うのは周囲の勝手な解釈、自己満足に過ぎないのではないか?でも、母が苦しんでいたらどうする?でも、意識がないから苦しんでいない?そもそも日本には尊厳死なんて存在しないはず…。


「そうだね。確かにお母さんは機械を外したら呼吸できなくなっちゃうね。それでも頑張っている。でも本当は何が患者さんにとって幸せなんだろうね…。」


表面的に優しいだけではなく、きちんと自分の意見が言える看護士さんだった。


一睡もせずにスペインから病院へ直行した私の思考回路はグチャグチャになっていた。それでもやっぱり願っていた。お母さん、お願いだから意識を取り戻して。話せなくてもいいから、せめて私の手を握り返して。


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by dias-madriz | 2010-04-04 06:30 | Familia | Trackback
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マドリッドへ到着後すぐにパッキングを始めた。場合によっては数ヶ月日本にいなければならないため、相棒F氏へ色々お願いしておくこともあった。私の代わりに諸手続きが出来るように委任状を作成したり、IDカードやパスポートなど重要書類のコピーをとったり、その他諸々…。

私は居住労働許可証の更新段階にあたっていたため、新しいIDカードがまだ届いていなかった。既に更新は許可されていたが、スペインへ戻ってくる時に新しいIDカードが手元にないのは正直とても不安だった。

外国で暮らすということは、身内に何かあった時にすぐ帰れないというだけでなく、居住許可証の状況によって、日本から外国へ再入国する際に問題が生じる場合がある。

弁護士に確認した結果、私の場合はスペイン到着時に問題は起こらないだろうということだった。空港の警察が私のID番号をコンピューターで検索すれば、更新許可状態であることがすぐに分かるからだ。


でもこれはビザや居住許可証の種類、そして国にもよる。

2年前、伯父が癌で他界した。たまたま日本に帰国していた私は葬儀へ出席することが出来たが、アメリカ在住の従兄弟(フィリピン人と結婚し、現在アメリカ在住の従姉妹ちゃんのお兄ちゃん)はビザの関係でアメリカから出ることが出来なかった。

父親の葬儀はおろか闘病中に付きそうことさえ出来なかった。従兄弟はアメリカでロシア人と結婚していて子供もいる。

詳しいことは分からないが、永住権の申請中だか何だかで、一度アメリカから出てしまうと全てが水の泡になってしまうらしい。

伯父の死から2年経った今も従兄弟はアメリカから出ることが出来ない。ちなみに伯父は生前、孫に直接会うことも出来なかった。闘病生活でアメリカに行くことが出来なかったからだ。

親戚の中には「親の葬式にも帰ってこないなんて、なんて親不孝なんだ。」って悪態つく人もいたが、従兄弟の心中を考えればそんなことは軽々しく言えない。まあ、親戚の感情も分からないでもないけどね。

従兄弟は誰よりも先に飛んで帰りたかったはずだ。自分の父親の死に際なのだ。でも、従兄弟はアメリカで生活している。仕事をしている。家族もいる。従兄弟一人の問題ではない。これから先もアメリカで生きていかなければならない。

感情だけでビザの問題が片付くなら、誰だって苦労はしない。「日本を離れて暮らしている」というだけで親に対して多少の罪悪感はある。死に際に間に合わず、葬儀にすら出席できなかった後悔は一生ついてくる。

そんな従兄弟のことを考えると、私は本当についていた。母の危篤を聞いてすぐにスペインを出ることが出来たのだ。

ただ、問題なのは数ヶ月間スペインで仕事ができないこと。2年後の居住労働許可証の更新時に問題になる可能性は大いにある。それでもそんな先のことは考えられなかった。

私は従兄弟のように外国で結婚して家庭を持っているわけではない。相棒F氏とスペイン生活を続けるため、今回の帰国が将来的に大きな影響を与えるかもしれない。それでも私の選択肢は、当然、危篤状態の母の元へ駆けつけることだった。

話が随分それたが、日本行きの準備も終え、一睡もできないまま相棒F氏に付き添われて空港へ向かった。F氏は一緒に日本へ行くと言ってくれたが、母の今後の状況が分からなかったので一人で帰ることにした。

そして4月4日(日)朝6時半、成田空港に到着した。


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by dias-madriz | 2010-04-03 07:15 | Familia | Trackback
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父から電話があった時、私はセマナ・サンタ(聖週間)休暇を利用して相棒F氏と一緒にバレンシアにいた。マドリッドから電車やバスで3、4時間。マドリッドから一番近いビーチと言うこともあり、バレンシアは「マドリッドっ子のビーチ」とも呼ばれている。

今思うと、セマナ・サンタ休暇で外国に行かなくて本当に良かった。スペイン国外にいたら母の臨終に間に合わなかった。

しかも、私が日本へ到着した日にアイスランドの噴火が起こった。噴火から数日間、ヨーロッパの主要空港は閉鎖されていた。スペイン出国が1日遅れていたら、母の臨終どころか葬儀にすら間に合わなかっただろう。母の死は耐え難いものだが、今思えば、臨終に間に合ったのがせめてもの救いだ。

父から電話があったのは4月2日(金)スペイン時間で朝の8時15分ごろ。ホテルで寝ていた私たちは父の電話で起こされた。

私は定期的に日本へ電話していたので、日本からかかって来ることは滅多になかった。それが、父からの突然の電話。何だか嫌な予感がした。ここ数年、母は体調が悪く年末年始に私が帰国した時も入院していた。


予感的中。


「危篤だ!危篤だ!」と叫ぶ父に母の詳しい容態を聞けるはずもなく、また私自身もかなり動揺していた。

「とにかく今すぐ飛行機のチケットを買ってすぐ帰るから。」と電話を切る。


日本語で「お父さん?どーしたの?何?何?」と叫んでいた私の様子を横で見ていた相棒F氏も何かを悟ったらしい(F氏の日本語能力は限りなくゼロに近い)。


「Mi madre va a morir! Va a morir! お母さんが死んじゃうよ!」


泣き叫ぶ私を支えながら、F氏は持参していたノートパソコンを開いてチケットを探し始めた。それと同時に8月の帰国用に買っておいたチケットの日付変更ができるかどうかJALへ電話もした。


JALがマドリッドを出発する最終便は15時半くらいとのこと。バレンシアにいた私がマドリッドに戻ってから空港へ向かうにはギリギリの時間だ。

しかもホリデーシーズンでマドリッド行きの電車の切符は売り切れ。バスで帰るしかない。高速の渋滞が予想されたので、当日発のJALを諦め、翌日発のチケットを探す。3日発、4日着のエールフランスを予約した。

日本からスペインまでは直行便がない。乗り継ぎ便の時間によっては、たとえ出発日が1日違っても、実は到着時間にはあまり大差がなかったりする。どちらにしてもヨーロッパ発は日本に当日着ができない。

エールフランスはマドリッドを朝7時くらいに出発するので、日本へ到着する時間も翌日の朝6時半と早い。エールフランスに感謝した。

日本行きチケットを押さえた私は少し落ち着きを取り戻し、F氏と一緒にマドリッド行きのバスへ乗り込んだ。


それでも母が危篤だということ、もう二度と話せないかもしれないということ、色んなことに実感が湧かなかった。年末年始に入院していた母は、私がスペインへ戻る前日に退院した。あれが母と過ごした人生最後の日だったなんて、どーしても信じられなかった。

日本へ行ったらバタバタすると思い、マドリッドへの道中、転職先のボスや転職先に来てくれることになっていたお客さんたちへメールした。


「母が危篤なので急遽日本へ行きます。状況によってはいつスペインへ戻れるか分かりません。迷惑かけてごめんなさい。」


本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。私が失業してから転職が決まるまで、ずーっと私を信じてくれた人たちだったから。

次々と返信メールが届く。


「madriz。僕達のことは心配しないで。お母さんは世界で一番大切な存在なんだよ。」


母が危篤なのに不謹慎だとは思ったけど、思わず笑ってしまった。さすが、スペイン人だ。家族が一番、お母さん命のスペイン人。



お母さんは世界で一番大切な存在。



バスの中でまた父から電話が入った。日本時間で22時くらいだった。

「今、病院にいるんだ。たくさんの親戚が来てくれたよ。お母さんはまだ頑張っているから、madrizは心配しないで気をつけて帰っておいで。」

バスの中で人目もはばからず、わんわん泣いた。ピーチクパーチク喋り続けていた周りのセニョーラたちもびっくりしていた。

相棒F氏も私の横で励ましてくれる。

「ICUに入っていても24時間経過すれば、大丈夫かもしれない。落ち着くんだよ。」


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by dias-madriz | 2010-04-02 22:00 | Familia | Trackback
今、日本にいます。かなり個人的な内容ですが、自分のための備忘録として。


転職を1週間後に控えていたある日の朝、突然日本の父から電話が入った。


「madriz!あー、良かった。やっと繋がった。お父さん、どーすればいいか分からなかったんだよ。」


普段、スペインに電話をかけてくるのは母の役目だったから、父にも電話番号はもちろんのこと電話のかけ方も教えていたが、実践することはなかった。

だいたい、実家の固定電話からワンプッシュすれば自動的にスペインにかかるように設定だってしておいた。でも人間、普段やっていないことはなかなか実行できないものなのね。

でもね…、固定電話の横に「ワンプッシュでスペインへ直通」って張り紙があるのだよ、お父さん…。

父は電話帳を何度も何度もめくりながらよーやく私の携帯電話の番号を探し当た。必死にダイヤルを回していたらしいが、かかるはずがない。それは080で始まる日本の携帯電話番号だった…。

電話は無理だと思った父は、今度は私のスペインの住所を見つけ出し、国際電報を打とうと決めた。でも、電報担当者が住所に書いてある「/(スラッシュ・斜線)」の意味を理解してくれなかったらしく、電報もあきらめた。

だいたい、「スラッシュ、斜線」と言っても通じないような人が国際電報の担当者として働いているのもどーかと思うが、まあ仕方がない。

この時点で父はかなりパニック状態だったに違いない。

父が見つけ出した私のスペインの住所は国際郵便の控えに書いてあったもの。電話番号だってちゃんと記載されていたのに…。

日本の携帯電話にかけ続けていて繋がらなかったため、もう電話は無理だと判断したのだろう。その時はスペイン国番号+34で始まる電話番号が目に入らなかったに違いない。

一息置いた父はよーやく+34で始まる電話番号に気がついた。


「もしもし!もしもし!madrizか?お母さんが…、お母さんが危篤なんだよ!」


父から電話が入ったのは2010年4月2日(金)日本時間で15時26分。スペインはマイナス7時間の時差(サマータイム時)。

初めは父の言っていることが理解できなかった。何で危篤なのか?どーして病院にいるのか?

電話口の父によると、3月24日(水)の朝、母は突然倒れてそのまま緊急入院したらしい。それ以外の詳しい話は日本に到着してから聞いた。

2年前に両足の動脈硬化で手術をした母だった。当時は危うく切断を免れた。今回倒れた時、父は「今度は脳に来たか…。」と直感したと言う。

救急車で運ばれた母はそのまま手術室へ直行。左腕に動脈硬化が見つかった。そして小脳梗塞も起こしていたが、それには手を施すことは出来なかったという。それでも手術後に母は意識を取り戻した。

その時点で父はスペインへ電話しようとしていた。でも母は、

「2、3日したらmadrizから電話が掛かってくるはずだから、それまではいいわよ。心配させちゃうから。」


手術から一週間、吐き気に悩まされ点滴生活を送っていた母。そこでお医者さんから「少しフルーツを食べてみましょうか。」と言われた。

日本時間の4月2日(金)の朝、ひと口大にカットしたフルーツをタッパーに詰めた父は8時35分に病室へ到着。

母は同室の患者さんと普通に団欒していたらしい。そして突然、返事をしなくなった。父が病室に到着した時、母の意識は既に朦朧としていた。それでも両手を振りながら何かを伝えようとしていたらしい。

再び手術室へ運ばれた母は心不全も併発していた。実は年末年始に私が一時帰国した時も心不全で入院していた。

後日、お医者さんが私でも分かるように説明してくれた話によると、心不全というのは血の塊(血栓)を作ってしまうらしい。手術室へ向かった時点で母の左首の根元の動脈に血栓があったという。

薬を投入して血栓を溶かしたかったが、入院時に小脳梗塞を起こしていたため、それも出来なかった。しかも脳全体がむくんでいた。頭蓋骨に囲まれている脳がむくみ始めるということは、とても危険な状態らしい。

手術することも出来ず、母は意識を失ったままICUへ移された。

「今日か、明日が峠です。ご家族、ご親戚に連絡してください。残念ですが、おそらく娘さんは間に合わないでしょう。」

父は絶望したまま自宅へ戻った。そして私の電話番号が簡単に見つからず、途方に暮れた。


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by dias-madriz | 2010-04-02 15:26 | Familia | Trackback